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散歩道

 

長野インターから車で10分程の場所にある川中島古戦場。信越国境地帯周辺の千曲川のほとりには善光寺平と呼ばれる沖積平野が広がり、この地に諏訪上下社と並ぶ信濃国の名刹善光寺があり、有力な経済圏を形成してた。善光寺平の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる三角地帯を川中島と呼ぶ。当時の川中島は幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地で経済的な価値はあまりなかったようだが、越後国につながる街道が通る戦略上の要地で、武田晴信にとっては信濃国支配の完遂のために、長尾景虎にとっては越後国防衛のために是非とも支配しておかねばならない土地であった。

この地域には高梨氏、須田氏、井上氏、島津氏、栗田氏、市川氏などの中小国人領主、地侍が分立していた。彼らは村上義清を盟主として武田氏の信濃侵略に抗していたが、武田軍の連年の攻勢の前に村上氏は風前の灯となっていた。そのため、北信濃の国人衆は越後国の長尾景虎に援助を仰ぐことになる。

武田氏の北信濃侵攻は景虎にとっても脅威であり、また、長尾氏と北信濃国人衆とはかねてから密接な関係があり、特に高梨氏は父為景の時代には関東管領上杉氏との戦いで援助を受け、当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、古くからの同盟関係にあった。このため、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。




 
 

「風林火山」の旗
武田軍の軍旗であるこの旗は、別名「孫子」の旗ともいわれ、もともと新麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫子」の一節で、武田氏の菩提寺恵林の禅僧快川招喜の筆にうなるものである。
「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く」
これは合戦にのぞみ、軍隊とはかくあるべきことを教えたもので、孫子の研究者として戦国の最高峰といわれた信玄の軍隊運用術でもあった。
武田軍の軍旗としては、このほかに「南無諏方南宮法性上下大明神」の旗があり、「風林火山」の旗と共に武田軍の象徴である。

 
 

「毘」「龍」の旗
上杉軍の軍旗で、「毘」は上杉謙信が信柳した毘沙門天を意味し、戦場にこの旗と共にあることは毘沙門天と共にあり、その加護のもの上杉軍将兵は勇往遭進し、水火も辞さない勇気を示したといわれている。
「龍」は乱れ龍を意味し、突撃の時をまっ先に押し立てて進んだ「突撃用軍旗」である。
永禄四年(一五六一)九月十日の川中島合戦もこの旗で火蓋が切られたのである。
兼信自らの信柳心に発する「毘」の旗と共に、この旗は上杉軍の勇猛果敢さを象徴し戦わずして敵の恐怖心を誘発したといわれる。

 

川中島古戦場場所[MAPはこちら]